素敵なアイデア
アイデアの伝達について、2011年は思案した年だった。
2012年になったので、考えていたことをまとめてみるよ。
俺の定義では、アイデアってのは、複数の見えている問題と複数の見えていなかった問題が
すぐれたシンプルな方法で解決するものだ。
で、俺ってばアイデアマンなので、何か素敵なアイデアを発明するってのが
今までの自分のスタンスだった。
でも、まあアイデアを広めていく中で、ボトムアップ的なあるいはゲリラ的なやり方に限界を感じていたのも確かだ。
そこでまぁ、「アイデアを伝える」っていうことが2011年のキーワードとして出てくることになった。
アイデアを伝えるためには、まずなんでそれをやるのか?というのが大事になっていくんだけど、
これの難しさっていうのが、なかなか理解されない。いや、簡単に言うんだよね。なんか説明とかすればいいじゃないみたいに。
いやいや、これはそんなに単純なもんじゃない。(これもまた理解はされないんだよね)
既存の事柄を誰にでもわかるように説明するなんてのは、簡単で、むしろ俺にとって得意分野。
そもそも、対象の精神に落ちていない概念を構築するなんていう荒唐無稽なチャレンジに比べたら、圧倒的に簡単なので
アイデアの伝達もまた簡単なものだと思っちゃうんだろうね。
アイデアの伝達は「なんでそれをやるのか」っていうことの伝達が一番大事だ。
「なんでそれをやるのか」はつまりは「問題の認識」で、「問題の認識ができる」というのはほとんど解決の方法がわかるというようなことだ。
それならそもそも伝達するまでもないんだ。俺はそれをやります。で済むからね。
問題の認識ってのが簡単だったら、それは簡単に解決しているはずのことなんだ。
誰だって正しく認識された問題を解決する程度の能力はあるはずだからね。
アイデアってのはそんなもんじゃない。それは体感によって初めて理解されて、説明によって理解されないものなんだ。
説明によって理解されるものは、もうすでに体感しているようなものであって、
多くの人にとって体感してしまっているようなものはアイデアとしての力を持ってない。
アイデアは、説明できないのだから、うまく実施するには自分で行動するしかない。
実施されたアイデアは徐々にミームとなって人々の行動様式を変化させて、
根付いていき、共通概念化されて理解されていく。
こういうフェーズを経た頃には当たり前になって消えていく。
0という概念が無い頃をもう思い出せないようなもんだ。
こんな流れをアイデアの普遍化と呼んだりしようか。
よくあるのは、問題の表層化を境にアイデアが理解され始めるというようなことだ。
表に出てこないときは、いくら言葉を尽くしてもダメ。こういうことが起こりえますよとか言っても、なしのつぶてだ。
いまだったら、原発の件で騒ぎ立てたんだからよくわかるだろう。失敗が表面化すると最初から理解していた振りをする連中がいるってことを。
一度表層に現れたら、簡単に普遍化を起こす。でもまぁ、表層に出てくるのを待ってたら、それって負け戦だからね。
そういう意味では、
理解されるってのがそもそも負け戦なんだ。
多くの人に理解される問題解決ってのは、もう問題が露出してしまっていて、その上に乗っかったものなんだ。
理解されていないこと、だけど体感できているってことが大事で、その体感は当たり前になって消えていく。
これがアイデアの正しい流れなんだ。
そういうことが「体感」できたことで
ようやく「わかった」。
「アイデアを伝達する」ってのは、そもそもナンセンスなんだ。
アイデアってのは、ゆっくりと普遍化するのが常であって、伝達なんかできないんだ。
だから、
アイデアを伝達して実施するなんていうのはナンセンス。
本当にやりたかったのはアイデアの総量の増加なんだから、次のようにすることにした:
自分でアイデアにたどり着ける人に問題認識の種を与えて、たどり着いてもらう。(問題解決の委譲)
自分でたどり着けない人には、具体的な指示を積み重ねて、自分だけの問題エリアを見つけてもらう(領域の限定)
本当にぶっ飛んだアイデアは自分でやってしまう!(自己解決)
この3パターンだけだ。
そんで、生み出されたアイデアが普遍化するまでは、簡単な理由だけつけて
「こうでなくちゃダメだ」と言い続ける。あるいはそのサポートをすることだ。
みんなに理解できるものなら、アイデアでもなんでもないんだから。