2018年のアイヒマンとアーキテクチャ

2017年の流行語大賞には、「忖度」が選ばれた。組織や偉い人の意向にそうように、誰から言われるでもなく行動をしてしまうことだ。これは日本だけの現象ではなくて、同じ2017年のdictionary.comのキーワードには"complicit"が選ばれた。悪いと知りながら、その行為に消極的に加担してしまうことだ。

世界は少しずつ排外主義に向かっている。自分ではない何者かを自分のエリアから追い出さなければ、自分たちがとり殺されるという不安を抱えた人々が、その「構造」そのものではなく、目に見える仮想敵を取り除こうとしている。

この忖度の正体はなんだろうか。周囲を気にして、周囲の望むように振る舞うのはなぜなのか。山本七平は、このような目に見えない力のことを「空気」と呼んだ。彼のいう日本教の中では空気は最高権力者であり、目に見えない面妖な妖怪だと言った。第二次世界大戦に突き進み、そしてそこから撤退できなかったのも空気による支配がそれを許さなかったからだと論じた。

空気を読むこと。これは今の日本ではコミュニケーション能力のうちで必須の力だと思われている。つまり、周囲に合わせて、周囲の望むような自分であろうと合わせて行くことだ。

女性は、女性であろうとする。周囲が望むように女性であろうとする。
男性も男性であろうとする。周囲が望むように男性であろうとする。

「仕方ない」そう飲み込んだ言葉の中に、あなたを僕を取り殺そうとする何かがある。
僕が自分の人生の中で明確に「敵」であると言えるものはこの「空気」だけだった。

少し考えればわかる。「このままではダメなのかもしれない。」そのことに無自覚で、一歩前に踏み出すことができない人々。いつでも責められる誰かを探して、それで溜飲を下げている人々。そういうちょっとした弱さが、真実に向き合うことのできない弱さが、世界中の悪を作っているし、あなたのチーム、会社、地域の、日本の、世界の悪を生み出している。

かつて、ユダヤ人虐殺についての行政的な主導を行なっていたアイヒマンに対して、ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」だと言った。システムの中に組み込まれ、ただ小役人として世界最大の虐殺を実行したにすぎない。誰もが、あの場面いたら、そして自分自身もがそれにあがらえなかったのかもしれないと喝破した。彼女は、アイヒマンを擁護しているように思われバッシングを受けた。ちがう。彼女だけがあの瞬間に本当の悪魔の存在に気がついたのだ。

悪魔は、僕たちの「認知」の中にある。アーレントは「全体主義の起源」の中でどのように全体主義が人々を蝕んで行くのかを述べた。まずは、国民国家によって枠を認識した。存在しない架空の物語で繋がる人々が規定された。アーリアン仮説と優生学だ。そのことで初めて不快だが寛容に認めている隣人であったユダヤ人を自分の枠の中にある異物と認識するようになった。断片的な情報を取捨選択し、あたかもユダヤ人が自分たちを脅かそうとしているのだと見せた。そして、敵を作り、物語をつくった。


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僕たち人間は、事実を正しく認識できない。ゲシュタルト原則というものがある。人間は、近くにあり、類似したものをグループ化し、わずかな痕跡からそこに隠された図形を見出す。この2つ。全体主義の起源とゲシュタルト原則に非常に似たものを感じないだろうか。

誰かが自分と違うものだと思い、誰かを自分と同じものだと思う。
自分と違うものを排出して、自分と同じものを取り入れようとする。
ここに情報の非対称性が生まれ、その密度の差が見えない風をうむ。
高気圧から低気圧に空気が流れるように、情報の格差から風が生まれる。
これが空気と呼ばれるものの正体だ。そして、この境目に、不幸が生まれる。

違うと思う理由なんてなんでもいい。
生まれた地域、人種、宗教、職業、政治観、年齢格差、経済格差、そして性差。

悪魔は僕たちの認知の中にあって、あなたの仮想敵の中にいるのではない。
僕らが試されようとしているのは、2018年のアイヒマンにならないかどうかだ。

卑近なことでいい。あなたの職場に、あなたの仲間ではないと思っている仮想敵はいないか。あなたを不幸にする元凶だと思い込んでいる誰かはいないか。あなたの学校に、自分たちの仲間ではないと排斥して楽しんでいる人はいないか。あなたの地域に自分たちではないと思って、取り除こうとしている人々はいないか。あなたの国に。世界に。

本質的なコミュニケーション能力とは、「空気を読む」ことではない。
その空気の発生源になっている「情報の非対称性」を取り除くことだ。
認知の歪みを振り切り、あなたの仮想敵を深く知り、共感してみせることだ。
そしてあなたのことをあなたの仮想敵にこそ伝えて見せることだ。

ちょっと言いにくいこと。ちょっとだけのことだ。
自分が何を不愉快に思い、何を嬉しく思うのか。

しかし、この認知の歪みは、一方で人類に繁栄もまたもたらしている。
というのは、共感と連帯、そして社会、宗教の生みの親でもあるからだ。
サピエンス全史では、そのことが一貫したテーマとして語られている。

ゲシュタルト原則や僕らの認知能力の限界は、それ自体が大きなうねりとなって社会を作り上げている。デザインやアーキテクチャとは、この見えない力を積極的に作り出す行為だ。多くの場合、社会のために。あるいは自分たちの利益のために。

ミシェルフーコーはこのような見えない力の作用を生の権力とよんだし、
レッシグアーキテクチャ型権力と言った。


それでも多少は僕は、アーキテクティングやデザインの力を信じていたし、それは「空気を作り出す」ものだと思っている。それは見えない空気の力を見るものだからだ。そして、不幸の連鎖に人があがらう唯一の手段だからだ。アフォーダンスも忖度も空気も優れたソフトウェア設計も組織設計も同じものに過ぎないとしても、一歩前に出ることからしか、進まない。

組織や社会がコミュニケーションの失敗に伴う偶発性・不確実性によって生まれていると指摘したのはニコラス・ルーマンだった。デザインもアーキテクチャも、不確実性を食って、成長する散逸構造だ。せめて、不確実性を前にして不安にとり殺されることなく、不確実性を食って自分のものにすることが必要だ。


東浩紀の観光客の哲学は、約めていえば観光客というコンティンジェンシーの増加(コミュニケーションの誤配)によって、排外主義とグローバリズムの悪しき側面を食い止める何かが生まれることを期待する話だった。これを郵便的マルチチュードと呼んだ。

この抵抗が無駄に終わるかもしれないし、何も残らないかもしれない。
一切の戦略も見えないし、どうしたらよいかわからないけど、
僕は2018年も自分自身に恥ずかしくないように、アイヒマンにならないように、
前に一歩でることを恐れない人間でありたいと思う。